ここでは丸菱バイオエンジの歴史をギャラリー形式で年代を遡り閲覧して頂けます。歴史ある当社の写真と共に成長していく姿をご覧ください。
1979年
ハノイ総合大学(ベトナム)
ベトナム戦争終結から4年、中越戦争直後の1979年7月に入社6年目の若手エンジニアの佐久間(現・代表取締役専務)は5Lと50Lの培養装置の設置・運転指導のためにバンコク経由で単身ハノイ入りした。
―当時、日本人としてVISA番号が4150番?と若い番号での入国であった―
戦争の影響なのか当時のハノイは現在のハノイ道路事情からは想像できないぐらい閑静なものであった。
設置・試運転では予期せぬトラブルに見舞われた。
電力供給の問題で50Lの方では電磁弁が動かなかったり、卓上型5Lでは3時間経過してもオートクレーブが出来ていなかったりと難儀した。また隣の部屋にある古いハンガリー製の醗酵槽も稼働中で、コンプレッサーの音がものすごく、研究室内で会話するのも大変なぐらいであった。
それでも蒸し風呂のような暑さの中、研究室スタッフの方々の熱心さや勤勉さ、ガラス槽保護用のケースをご用意されるほど装置を大切にされるのを見るにつけ、心を打たれた。
佐久間自身も「●●がないと出来ない」という思考から脱し、「どうすれば出来るのか」ということに知恵を絞って対応した。
5年後、ハノイ総合大学をご訪問された北里大学の先生から1枚の写真を受け取った。納品先研究室の受入責任者ズン先生とそのご家族の写真だった。
納品から15年後の1994年、市場調査目的で再びハノイを訪れ、ズン先生と再会を果たした。ありがたいことにズン先生より研究所や大学等をご紹介頂き、新たな交流へと繋がっていった。
ホーチミン廟の前で
ハノイの市場
市場で買った日差し除け帽子
1986-87年
キューバ科学アカデミー(キューバ)
1986年当時、中南米一といわれるキューバ科学アカデミーの建設が始まっていた。同年2月に同研究所の担当官が来日・来社し、「プロジェクトはカストロ議長の指示によるもの」だと聞き、引き受けることを決断。
同年9月 製作のため工場に泊まり込む日々が続く。
同年11月 キューバから培養装置のオペレーション技術を習得するために技術者が来日し15日間にわたる技術研修を実施。なんとか年内に製作・船積みを完了。
1987年2月 入国はフリーパス。別荘地のペンションにて2名のメイドさんにお世話をしていただくなど、VIP待遇での招待を受ける。しかし、現地での作業は研究員の方々と共に毎晩10時まで行うほど多忙であった。2月28日、何の前触れもなくフィデル・カストロ議長が部下を5名連れて現場へ来られた。
議長が直接指示を出して注文したプラントであるから関心も強く、自ら進捗状況を確認しに来られたということであった。(この時、議長と一緒に撮って頂いた写真は引き伸ばし、大事に会社に飾ってある)
同年3月 作業も無事順調に進み、完成した。
1987年2月
VIP待遇での招待を受ける
1987年3月
共に苦労を分かちあった皆さんと引渡し時に
1994-95年
FMDワクチンセンター(タイ)
1994年2月、タイ王国バンコク市において農業省畜産局管轄のFMD(Foot and Mouth Disease/口蹄疫)ワクチンプロダクションセンターからの5,000L動物細胞培養装置を中心とする製造設備の契約締結に至った。同センターの建物及び内部設備は福田首相が東南アジア歴訪の際にODA建設・寄贈された施設で、この契約は、
①設立当初1977年に動物細胞培養槽10L及び30Lの納入・設置の実績
②日本から専門家*1として派遣され数年に渡り現地で活動されてきた先生方が築いてこられた実績
③その後の2,000L、2,500Lの動物細胞培養装置の建設・稼働の実績を価値ある取組みとしてご評価いただけた結果の受注獲得であった。
*1 農水省家畜衛生試験場の徳井先生・難波先生、日本生物科学研究所の本橋先生、東京大学の望月先生ら
1977年
10L及び30L研究用
1981年3月
2,000Lワクチン製造プラント
1985年
2,500L増設
1995年4月当時、世界最大となる動物細胞培養によるワクチン製造プラント(5000L×2基)を納品。
設計から完成までに2年の歳月を要した。
当社の技術者・技能者はバンコクを経由して東北200kmの地にナコンラッシャシマ県パクチョン町にあるFMDワクチンセンターに集まった。5,000Lタンクを持ち上げる重機などない状況にあって、工夫に工夫を重ねて5,000L2基と500L1基からなるFMDワクチン製造プラントを完成させた。